「できる」は前提

今日のほぼ日、まだ実感として理解できていない気がする文章だったので、
いつかわかるレベルになれる日がくることを願って貼っておこう。

今のところの推測では、南場さんの「コトに向かう」と同じで、
「自分」ができなかったらどうしよう。
というちっぽけでどうでもいいことに囚われている間は不自由で、
「自分」とかどうでもよくて、「コト」ができることだけ考えて動ければ自由、ってことかな。

とは言え、能力がまだついていない状態で、できることを前提に考えるって、
相当難しいことじゃないですかい?と思ったりしつつも。

・コピーライターという仕事をはじめてすぐのころは、
 一本のコピーを書くのに、
 なんか大変なことのような顔をして、
 じっくり考えているようなつもりになって、
 それこそ、ひねり出していました。
 原宿にあった事務所から、代々木公園まで歩いていって、
 空を見たり緑を呼吸したりして、
 名コピーが降りてくるのを待っていたこともあります。
 
 ‥‥ばかじゃないの、と思います。
 なんか大層なことをしていると思っていたのでしょうか。
 考えている顔をしている時間のほとんどが、
 考えてない時間であるということを、
 いまからでも教えてやりたいくらいです。
 ただ、それがじぶんのやっていたことなので、
 ひたすらに恥ずかしがっているくらいしかできません。
 
 そのころ、ひとつひとつの仕事のことを、
 「できるかもしれない」と思いながら
 やっていたのでしょうね。
 そこがすでにまちがっているわけで、
 「できる」というのは前提なのですから、
 「できる」と思いながら仕事をしなきゃねー。
 
 「できるかもしれない」とか「たぶん、できる」では、
 どうしたって苦しくなってしまうんですよね。
 「できない」という可能性を、まだ持ってるうちは、
 重い鎧(よろい)を着て戦ってるようなものです。
 裸に近いくらいに身を軽くして、事に向えたら、
 それが「できる」なんだろうなぁと、いまなら思います。
 
 いや、なんでこんなことを思い出したかというと、
 東京国立博物館の特別展『和様の書』の取材で、
 さまざまな書を見る機会があったからなんです。
 島谷弘幸副館長のご案内で鑑賞した「書」は、
 とにかくすばらしくのびのびと自由に見えたんですよね。
 いい声の人が、うれしそうに歌っているような感じ。
 昔むかしの書の名人たちの筆の跡を見ていたら、
 「ああ、できるって前提なんだよなぁ」と感じたんです。
 書を見て、思わず笑いたくなるような気分だったんです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
若いときのほうが、なんでも苦しそうにやってた気がする。