睡眠時間、上向いて寝るか?横向いて寝るか?

実にくだらないタイトルですが…

このタイトルのように「どうでもいいわ!」ってことに躍起になってる人が最近多すぎませんか?

よい睡眠が健康をもたらすことは自明ですが、仮に以下の3つ、問いを立てたとして、

【1】睡眠時間はどれくらいがよい?
【2】就寝と起床のリズムは一定がよい?
【3】上向いて寝るか、横向いて寝るか?

3の答えが健康にもたらす好影響って、1と2に比べたら無視できるレベルだと思うわけです。
(もし表現を「寝るときはどんな姿勢がよい?」にそろえたとしても。)

「できる限り、十分な時間、規則正しく寝ましょう!」
先生が言いたいことは以上!解散!

極論、これでいいと思うんです。

3の理論を突き詰めるよりも、より多くの人が、「先生が言いたいこと」を実践しやすい世の中を作る方が、よほど大事だと思います。

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「睡眠」という身近な例で書きましたが、いろいろな職業の人が仕事で日々頭を悩ませていることをよくよく見つめてみると、

「その悩みの先に出た答えなんて、世の中に大したインパクトないわ!」

という類いのものが大半ではないでしょうか。
少なくとも僕の場合はそうでした。
実にどうでもいいことに頭を悩ませ、たくさんの時間を無駄にしてきました。

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人生は短い。急に終わるかもしれない。
充実した気力と体力で、「働く」ことに熱中できる期間も、意外と短い。

そのことを強く意識しはじめた社会人6年目にして、ようやく人生をかけて取り組むべき対象を見つけることができました。

その対象は、「人」と「組織」。
具体的には、「人材育成」、「マネジメント」、「戦略人事」の3つ。

一つ目の人材育成。
向き合うべき問いの立て方が下手な人、あるいは無駄に悩みをかかえている人を「直接的な育成」または「育成者の育成」で救済したい。

二つ目のマネジメント。
無能なマネージャーの下で「インパクトの小さい問い」や「無駄な悩み」に向き合い続けている組織をなくしたい。

三つ目の戦略人事。
組織の戦略がイケてないばかりに生まれてしまう、「インパクトを生み出せない部署」や、「配置間違いにより不幸になる社員」をなくしたい。
然るべき場所で、然るべき人が活き活きとインパクトを出す組織を作りたい。

残るべき会社だけが残る世の中であってほしい、も究極的な願いではあるけど、それは自分の取り組みとは異なるスケールの大きな流れで自然とそうなっていくのかな、と。

(これまでの会社の自然淘汰は、必ずしも働く人にとっての幸せと同じベクトルではなかったと考えていますが、その話は割愛。)

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時代の変化が激しくなり、過去の常識では考えられない世の中が、きっと来るはず。
特に、「働くこと」の意味合いが急激に変わっていくことは間違いなさそう。
だとすれば、きっと「人」と「組織」も急激に変わるはず。

その仮説のもとに、自分の有限の時間を、そこに集中投下して生きて行こうと、今のところは思っています。

20150309

久しぶりの日記。

過去の自分の日記を読んで、ハッとさせられることもあるんだなー。

暑苦しい文章だらけで、恥ずかしいところも多々あるけど、一生懸命生きてる。


昔の自分に失礼な生き方はしちゃいかん。

今自分が置かれてる状況で、一生懸命やれることをきちんとやっていくのが大事。

行動の積み重ねが思いになる、という昔つかんだ感覚をもう一度思い出そう。

一つ一つの行動に妥協せず、真剣に向き合っていく。自分に負けない。

逆境

今日のダーリンから。メモ

西武ライオンズの新人で、いま売り出し中の森友哉選手が、活躍したあとのインタビューで、「高校野球激戦区の大阪桐蔭で揉まれた経験が生きている?」と質問され、「そうかもしれませんね。当時は苦しい試合を何試合もやっているんで‥‥。その経験が今に生かされていることはあるかもしれません」というようなことを語っている。(日刊ゲンダイ8月19日)この「苦しい試合を何試合もやっているんで‥‥」が、いかにも、ほんとうにそうだったんだろうなぁと思える。じぶんのいるチームが、とても強くて、危なげのない試合を続けていられるような状態だったら、どうだったのだろう、ということを思う。門外漢だけれど、想像させてもらえば、「苦しい試合」の経験だけが、選手にほんとうの強さをもたらすのではないだろうか。

予定外の窮地、諦めかける直前まで追いつめられること、じぶんたちの力量を疑いたくなるような経過や結果、天に見放されたかのような運のなさ、自由に伸び伸びしているように見える敵チーム。相手のほうが勝つだろうと、誰もが思うような場面から、敗けているはずのところから、やっと勝つ。そんな、見苦しいほどにじたばたした試合を、どれだけ経験したかが、ほんとうの強さになる。だとすると、準備万端、練習十分、圧倒的な実力、というような理想的なチームで試合を続けていたら、そういう強さは身につかないということになるだろう。このへんが、おもしろいところだ。

あえて、必死にならねば勝てないような弱さ。弱さぎりぎりの強さ、というようなものを、意識的に身につけようとするのは、とても難しそうだ。まずは強くなる、そして‥‥おそらくなのだけれど、「場面」を貪欲につくっていくことなのではないか。いくつもの「場面」を呼び込むような動きをとる。これこそが、「変化のなかに飛びこめ」ということか。このへん、ものすごく興味あることなんだよねー。強さの弱さやら、弱さの強さやら、あるもんなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。ただ強い、強そうで強いってのは、脆いんじゃないかなぁ。

20140811

「気付きがあった」、「考えさせられた」、など
読書や出会いから得られることは最近もいろいろとあった。

ただ、痛みを伴った体験から得られる学びや気付きは久しぶりだった。
色々なことが重なって、結果として自身の理想やモチベーションは明確になった。

自分以外の周りの人にも痛みを伴なわせた分、いい日だったとは言えないが、
それも背負って、少し先に振り返って今日が意味のある日だったと言えるよう、
今を積み重ねていこうと思った。


相変わらず目の前には色々あるが、一歩一歩。
負けちゃいられない。

腹をくくる

「腹をくくってしまえば何も怖くなくなる。

中途半端やから怖いし逃げたくなるんや。

覚悟を決めい。」

昔、部活の監督が言うてたなー、と思い出してたらこんな記事見つけた。

http://www.simpleeelife.com/archives/2073

ホンマにそのとおりやと思う。


7月も8月もきっと忙しいだろうけど、

状況は待っていても好転することはないし、

主体的に攻めて行くしか道はないわなー。


おもしろき、ことのなき世を おもしろく

っつーことで。


その道が茨だからこそ、やりきったら晴れ晴れとした景色が開けてそう。

ワクワクして行きましょう、生きましょう、活きましょう。

男の作法

池波正太郎の男の作法、という本からの抜粋。

人間の一生は、半分は運命的に決まっているかもしれない。だけど、残り半分はやっぱりその人自身の問題です。みがくべきときに、男をみがくか、みがかないか…結局はそれが一番肝心ということですよ。

仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、それから衣食住のすべてについて言えることは、「男のみがき砂として役立たないものはない…」ということです。その人に、それら一つ一つをみがき砂として生かそうという気持ちさえあればね。

男をみがくにも、みがきどきというものがある。たとえば巨人から阪神にトレードされたときの小林投手がまさに、彼にとっての男のみがきどきだった。というのは、自分が大変な負担を背負いこんだときだから。逆に言えば、そういう苦境に立ち至ったときはみがかざるを得ないんだよ。

男は何で自分をみがくか。基本は「人間は死ぬ…」という、この簡明な事実をできるだけ若い頃から意識することにある。自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない、そう思えばどんなことに対しても自ずから目の色が変わってくる。

ついでに、宝塚のブスの25カ条も。

01.笑顔がない
02.お礼を言わない
03.おいしいと言わない
04.精気がない
05.自信がない
06.グチをこぼす
07.希望や信念をもっていない
08.いつも周囲が悪いと思っている
09.自分がブスであることを知らない
10.声が小さくイジケている
11.何でもないことにキズつく
12.他人を嫉妬する
13.目が輝いていない
14.いつも口がへの字の形をしている
15.責任転嫁がうまい
16.他人をうらむ
17.悲観的に物事を考える
18.問題意識を持っていない
19.他人につくさない
20.他人を信じない
21.人生においても仕事においても意欲がない
22.謙虚さがなく傲慢である
23.人のアドバイスや忠告を受け入れない
24.自分が最も正しいと思いこんでいる
25.存在自体が周囲を暗くする


***

自分でこうありたい、こうしたい、と決めたことを、
決めたからには断固たる決意で守り抜く人の勁さに尊敬、憧憬の念を抱く。

「疾風に勁草を知る」という言葉があるが、
自らの理想のために、好き好んで疾風の道を行くと決めた以上は
「ブス」にならずに立ち向かっていく。
そんな姿が人の心を打つんだろうなぁ。

2つあったとき、どちらかを妥協すると、人間不思議なもので、
どちらも中途半端になる。

決めたからには笑顔で乗り越えるしか納得の行く結末への道はない。
仮に必死でやって乗り越えられなくても、死にはしない。
そう思えると少し気は楽になるよね。


そんなこんなで、部活の最終学年以来の「自分のみがき砂」が来たと思って
一生懸命夏を乗り切ろうと思っております。

好き好んで。

おっしゃる通り。

嫌ならやめたらいい。
全部、自分が選んでいる。

...

・「好き好んで」ということばが、ぽろっと出てきてから、それがずいぶんおもしろいものに感じられてならない。

長い階段を上り下りするのは、つらいことだ。だから、そのつらさを軽減しようとして、エレベーターやらエスカレーターができたはずだ。だが、このごろ、ぼくはよく階段を上っている。脚の筋肉の運動になると思うし、長い階数を歩いていると有酸素運動にもなるからだ。つまり「好き好んで」階段を上っている。

腹いっぱいめしが食えたらどんなにかうれしいか、人間の歴史のなかで、多くの人がそう望んできたはずだ。食うことは、うれしい、快感がある。食ったエネルギーのうちの使わなかった分は、身体が、脂肪に変えて、貯めておこうとしてくれる。ありがたいことだったのだが、困る面もわかってきた。だから、ぼくたちは「好き好んで」食うことを減らす。

徹夜するというのは、苦しいことだ。しかし、それをわかっているのに、人びとは、麻雀をし続けたりするし、恋人同士は寝ずに朝を迎えたりもするし、仕事やら研究やらに没頭した者は、寝も食も忘れてそれを続けようとする。「そうしろ」と命令されたのだったら、どれほど苦しいことか想像するのも嫌になる。しかし、それを「好き好んで」している場合には、誰にも邪魔されたくない大事な時間だということになる。

金に糸目はつけない、どんなご馳走を食べてもいい、などと言われても、素朴なうどんを選ぶことはある。「好き好んで」選んだうどんというものがあるのだ。

世間での価値がどうであろうが、「好き好んで」選ぶということが、いちばん根っこのしっかりした需要ということだろう。では、その「好き好んで」という動機の部分とは、どういうふうにつくられたり、変化したりするのか。そんなややこしいことを「好き好んで」考えてみたい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「好き好んで」やってることの多い人って、幸多いよなぁ。