気分と人間関係

確かに、と思った。


***

・天気のよくない日は、なんとなく機嫌もよくない。
 これ、なんとなくだから、気づけなかったりもする。
 浮かないなぁとか、晴れ晴れしないなぁと思ったら、
 そういえば、天気わるいからかなと気づくこともある。
 
 今日は怒りっぽいなとか、
 いつもよりガマンができないなというときには、
 風邪をひいていることが多い。
 風邪の諸症状ってやつがまだ出てないときにでも、
 いらいらしやすいことで、
 風邪ひいたかなと思うことは、よくある。
 たいていは、その夜とか翌日とかに症状が出てくる。

 しかし、天気とか風邪よりも、
 人間をどんより元気なくさせるのは、
 人間関係である。

 これはもう、断言できる。
 夫婦げんかとか、親子での言い争いとか、
 友だちとやりあったとか、先輩にひどく怒られたとか、
 会社で陰口言われてるらしいとか、
 ひっきりなしにネットで叩かれてるとか、
 人間との関係でよろしくないことがあると、
 明るく元気には生きにくくなる。
 
 気持ちを切り替えてやろう、と思っても、
 力いっぱい、フルスイングができなくなる。
 おそらく、宝くじで1万円当たるとかくらいの、
 ちょっとくらいいいことがあっても、
 わーいわーいと歓べないものがありそうだ。
 胃のあたりが重いから、動きも軽快になれないしね。
 
 人間の悩みごとというのは、無数にあるけれど、
 そのうちの、おそらく8割とか9割とかは、
 人間関係に起因するものではないだろうか。
 
 わざわざそんな話をすると、
 なにか人間関係でお悩み中ですかとか言われそうだけど、
 深刻なお悩み中に、こういう話はできにくいんでね。
 言えるときに言っておきたかったっていうことでさぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
贔屓チームの調子がわるいときも、どんよりしやすいかも。

20140414

最近感じたよしなしごとを徒然なるままに。

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無意識のうちに人に合わせて、思ってもないことを口に出すことが癖になっている。
最近あった例で言うとこんな感じ。

「いやー、最近大変ですねー。」

「そうですねー、マジで大変ですよねー。」
(本心:いや、別にそんなに大変じゃないけどなー)

言葉と行動が一致してない状態はあまり好ましくないので、まずは頻度を減らしたい。
人に合わせざるを得ない場合でも、
「今自分は人に合わせて思ってもないことを話している」
と自覚する必要がある。
無自覚だと、いつの間にかそれに自分が引っ張られるから気をつけたい。

***

まだまだ自分は子供。

「自分の欠点を認め、それを日常生活で改めていく素直な心」
が圧倒的に足りないという意味で。
しょうもない自分を相変わらず守ろうとする無意味なプライドがある。
反射的に、自分を否定されたときに、それを拒む。
素直に認めることができてないから、きっとまた同じことを繰り返す。

「謙虚、素直」と背中に書かれたTシャツを着ていた野球チームがあったが、
まさにあれが足りない。それが自分の成長の妨げとなっている。
頭ではわかっていてもなかなか難しい。自分大好きな自分がいる。

***

人が何かをしてくれることを当たり前だと思っている。

感謝の気持ちが圧倒的に足りてない。
感謝の気持ちが足りてないから、行動に反映されない。

具体例は挙げてもキリがない。

***
直近で意識することをまとめると、

・自分の心に誠実になる。
・ダメな自分を素直に認める。
・何事にも感謝する。

こう見ると、どれも人としてめちゃくちゃ大事だなー。


終わり〜

桜の話

またしても糸井さん

震えた。

**

・桜の木があってもなくても、
 なにか困るかと問われたら、
 問う人を納得させられるようなことは言えない。

 さくらんぼが食べられるとか、食べられないとか、
 そんなことを言ってもはじまらない。
 
 なくてもいいのかもしれない、桜の木は。
 満開の桜の下で、ぼくらはなにをよろこんでいるのだ。
 
 桜の木などなくてもいいということばにくらべて、
 言い返すことばのほうは、かんたんではない。
 だけど、しかし、言い返すのはむつかしくても、
 ほんとうのことを、ぼくらは知っている。
 実は、桜の木ばかりじゃなくて、
 ぼくらの知っている世界のほとんどは、
 なくてもいいものばかりなのだということを。

 なくてもいいものとは、
 あってよかったなぁと思うものだ。
 
 来年のこの季節まで、しばらく桜には会えない。
 そのことは少しさみしいけれど、
 やがては、忘れてしまう。
 そして、一年過ぎて、またいまごろに思い出す。
 そのていどにしか、桜のことを思ってはいない。
 だから、なくてもいいかと問われてしまうのだろう。
 
 でも、桜が咲いてよかったなぁと思う。
 手入れをしてきたわけでもないし、
 桜のことを思い続けていたわけでもないのに。
 
 おしゃれも、あそびも、おいしいものも、おもちゃも、
 たのしいもののほとんどは、
 なくてもいいと思われそうなものだ。
 そして、ときどき、あってよかったなぁと思われている。

 この島国に、こんなにたくさんの桜の木がある。
 たぶん、その多くは、人が植えたり育てたものだろう。
 なくてもいいものが、こんなにたくさんあってよかった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
北国の人たちは、これから、桜咲くたのしみを味わいます。 

「死にゃせんじゃろ。」

死にゃせんじゃろ、の話。糸井さん。

・勇気があるなぁと思える人が、よく言う。
 「いのちまでとられるわけじゃない」
 だれが最初に言ったのか知らないけれど、
 実にまったく、よくできたことばだなぁと思う。
 
 だいたい、なにかやるときには、怖いのだ。
 ただただ安心しきっているなんてこと、なかなかない。
 やったことがないことは、わからないことも多い。
 相手のいることならば、その力量の読みも必要だし、
 その相手の心づもりというものもある。
 とんでもない目にあうかもしれない。
 
 同時に、うまくいったときのことも思うわけで。
 さぞかしうれしいだろうなぁと、にまにましたりもする。
 想像する快感が大きいほど、心配になったりもする。
 
 ゆらゆらゆれちゃってるわけだ。

 ふつうの人の、ふつうの感覚からすると、
 だいたいのことは、怖い。
 ただ、絶対にうまく行くならやりたいと思ってる。
 そうじゃなかったら、やめておきたいと決めている。
 というわけで、たいていは「やめておこう」になる。
 ゆらゆらゆれちゃってるけど、
 そのゆれは、「やるぞ」のほうではなく、
 「やめておこう」のほうで止まるのである。
 
 ずっと、「やめておこう」を経験しているうちに、
 もう、ゆれることさえしなくなっていく。
 うまくいかなかったときに、
 どれほどのひどい目にあうか、
 なんてことも考えなくなってしまう。
 そのことに失敗したら、
 「いのちまでとられるわけじゃない」けれど、
 どれくらいの被害があるのか、
 それさえも考えなくなってしまうのだ。
 うまくいかなかった場合、どれくらいの目にあうのか。
 それをちゃんと考えてみると、
 あんがいたいしたことないと気づくこともある。
 「いのちまでとられるわけじゃない」んだよなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ちょっと東京を離れます。休みとひとり仕事を兼ねてね。

成長環境とは。

またも、糸井さんの文章。
 
・サッカーでいうと「セリエAで戦いたい」とかね、 
 いまはどうなのか知らないけど、
 格闘技だったら「ブラジルで修業してきたい」とか、
 学問だとかは「国際的な有名大学で勉強したい」とか、
 本場とか名門とか言われる場ってありますよね。

 前に、「どうしてブラジルって、強いの?」と、
 格闘技の選手に訊いたことがあるんです。
 「強いやつがいっぱいいるところで練習してますから、
 それがいちばん強くなるんですよね」と答えてくれた。
 強いやつがうじゃうじゃいる場所ってっていうのは、
 ちょっと強いくらいじゃ話にならないわけです。

 例えば、ある選手が、
 新しくて効果的な技術を身につけたとしますよね。
 強いやつの少ない地域では、ずっとそれで戦えます。
 向うところ敵なしで何年でもやれるかもしれない。
 天狗になっちゃったり練習さぼっちゃったりもしそう。
 でも、「強いやつがいっぱいいる場」では、
 新しい技など、すぐに打ち破られる可能性がある。
 それを防いだり、さらに上回るなにかを身につけないと、
 ぜんぜんおもしろくないことになっちゃうわけです。
 「こんなところでひと安心」なんてことがないんですね。
 周囲の発見やら向上やら成長やら成功やらが、
 ひっきりなしに目に見えてたりするんだから、
 「よーし、おれも!」となるんでしょうね。

 この名門、本場っていう考え方は、
 あらゆる世界にあるものですよね。
 いい会社とか、いい学校に入りたいという理由も、
 「いい刺激」がほしいってことがあるんでしょうね。
 それによって、じぶんの持ってる「ぽてんしゃる」を、
 どんどん発揮していきたい、というような。
 こういうこと、「そんなの厳しすぎていやだ」という人も
 きっといると思うんですよ、ぼくにもその気持ちはある。
 ただ、ね、逆はどうなのかと思うとね。
 本場じゃない場にいたいかとなると、
 いやいや、それは厳しくないけど苦しそうです。
 まぁ、こういう半端なことを言いながら、
 それなりにがんばるってことが、おもしろいのかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
満足の水準が高いのが本場、ということなのかもしれない。

一つ前の記事に全部集約されるんだけれど、

あー、やってしまったなぁ

とか

なんでこうなってしまうんだろう

と後悔することはよくあることで。

でも、結局、できることは後悔ではなく

改善のための行動しかないんですよね。


行動はあくまでも今の自分の表出であり、

その行動をしたからといって、自分が過去よりダメになったわけではなく、

「まだそういうダメな自分だったんだよ」

ということを知るきっかけにすぎない。

自分がやってしまったことに落ち込むだけで前進しないネガティブでもなく、

まぁいいや、と現実から目を背けるだけの開き直りでもなく、

自分をきちんと見つめたうえで、今後どうするかを考えて行動していくのが真の前向き。


これからも引き続き頑張ろう。

メモ

ほぼ日。

・痛恨の出来事があった、なんていうとき、
 「ああ、1日前にもどれたらなぁ!」
 なんて思うかもしれないけれど、
 1日前どころか、1時間前にも、1分前にも、
 1秒前にももどることはできない。
 
 口から出たことばは、
 1秒前にもどって呑み込むことはできないし、
 人を殴った拳も、引っこめることはできない。
 クルマのハンドルは切り直すことはできないし、
 ひとつの角を曲がり直すこともできない。
 この「もどれない」「できない」については、
 いい考えなんかない、あらゆる方法は役に立たない。

 どこがよかった悪かった、だれのせいだ、
 おれは前から反対だった、ああもうダメだ‥‥って、
 1秒前にももどれないという事実を前にして、
 まっさきに知っているべきことは、
 その1秒前にももどれないということです。
 そして、どうすればいいのかなんですよね。
 
 「覆水は盆に返らず」って昔の人も言いました。
 冷徹です、現実というのは。
 だけど、ぼくらは、ひっくりかえった水を前にして、
 あれこれ考えたり、しゃべったり、叫んだりしてしまう。
 「ここから」どうするか、手を動かし足を動かしながら、
 この先のことを考えていかなきゃならないのにねぇ。
 だけど、この先のことを考えて、
 ひとつずつ手を打っていくというのは、簡単じゃない。
 それよりは、ひっくりかえった水について、
 あれこれ言ってるほうが簡単なんだよね。
 
 チームの仕事のなかでも、個人的な日常のなかでも、
 「やっちまったなぁ」ということは、いくらでもある。
 でも、ほんとに、そこからあとが問われるんだよね。
 それは、たぶんなんだけど、
 失敗や挫折だけじゃなく、成功や栄光についても、
 同じかもしれないなぁと思うんだ。
 その、いいことでもわるいことでも「やっちまった」、
 そこからあとの時間をどう過ごしてきたか、だよなー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとに、「いま」と「いまから」が、大事なんだよね。