好き好んで。

おっしゃる通り。

嫌ならやめたらいい。
全部、自分が選んでいる。

...

・「好き好んで」ということばが、ぽろっと出てきてから、それがずいぶんおもしろいものに感じられてならない。

長い階段を上り下りするのは、つらいことだ。だから、そのつらさを軽減しようとして、エレベーターやらエスカレーターができたはずだ。だが、このごろ、ぼくはよく階段を上っている。脚の筋肉の運動になると思うし、長い階数を歩いていると有酸素運動にもなるからだ。つまり「好き好んで」階段を上っている。

腹いっぱいめしが食えたらどんなにかうれしいか、人間の歴史のなかで、多くの人がそう望んできたはずだ。食うことは、うれしい、快感がある。食ったエネルギーのうちの使わなかった分は、身体が、脂肪に変えて、貯めておこうとしてくれる。ありがたいことだったのだが、困る面もわかってきた。だから、ぼくたちは「好き好んで」食うことを減らす。

徹夜するというのは、苦しいことだ。しかし、それをわかっているのに、人びとは、麻雀をし続けたりするし、恋人同士は寝ずに朝を迎えたりもするし、仕事やら研究やらに没頭した者は、寝も食も忘れてそれを続けようとする。「そうしろ」と命令されたのだったら、どれほど苦しいことか想像するのも嫌になる。しかし、それを「好き好んで」している場合には、誰にも邪魔されたくない大事な時間だということになる。

金に糸目はつけない、どんなご馳走を食べてもいい、などと言われても、素朴なうどんを選ぶことはある。「好き好んで」選んだうどんというものがあるのだ。

世間での価値がどうであろうが、「好き好んで」選ぶということが、いちばん根っこのしっかりした需要ということだろう。では、その「好き好んで」という動機の部分とは、どういうふうにつくられたり、変化したりするのか。そんなややこしいことを「好き好んで」考えてみたい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「好き好んで」やってることの多い人って、幸多いよなぁ。