脱目的志向のすすめ

まさに!と思う記事だったのでメモ。
大そうな目的なんて掲げずに、やりたいからやってたこと、昔はたくさんあったよね。
純粋な感情に素直になった方がいいことも結構ある。

・お腹が減って、おにぎりをほおぼるときに、「生命を維持するために」なんて思わないですよね。結婚して家族が増えていくことは、「少子高齢化社会を乗り越えるために」とは、ちょっとちがうと思うんですよね。眠くなって寝るのに、「睡眠時間を確保するため」ってわざわざ言うことじゃないような気がするんです。

もともと、人は、そういうふうにしてきただろう。本能なんてことばを持ち出さなくても、そうしてきたようなことが、いっぱいあります。でも、いつのまにか、「ほっといてもそうする」ようなことが、なにか目的のあることのようになってしまいました。

なんでもかんでも、なにかの「ために」なっちゃった。食事している間も、必要ななにかの栄養分を摂取する「ために」もぐもぐしているみたいだし、個人や会社がなにかの仕事をしていることについても、なにかの「ために」という理由が必要になるみたいです。

そうなのかもしれませんけどね。なにもかも「ために」なるとはかぎらない。すべてのことに理由が必要なわけでもない。「ここは、理由を徹底的に考えよう」という場面と、「この理由は、もう、やろうってことでいいんじゃない」という場面と、どっちもあると思うんですよ。

やりたいようにやるだけ、ということが、どんどん少なくなっているように思えるんです。「ために」やってるわけじゃないことに、いつのまにか「ために」が付いてたりすると、どういうわけか、おもしろくなくなっちゃうんです。「ために」が付いてたほうが、もっとやりなさいという応援も得やすいのでしょうが、ほんとはね、考え無しに「わぁ!」っとやってるほうが、おもしろいことって、いっぱいあるんですよね。

もっとよく考えろ、ということをさんざん言ってるのに、こういう逆も言いたくなるのが、人と世の常ざます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「夢中になる」ということについて、言いたかったのかな。